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旧井野村の鎮守である。由緒について「社寺台帳」には、慶長壬寅年(1602)勧請と記されている。また、社について村の鈴木家が代々にわたり、本殿の鍵を預かっており、同家の同意がなければ開扉はできない。その上、正月の飾りつけから、鈴木家だけが特別に行う正月行事があり、昔の鍵元制度が現在も続けられている珍しい例である。
郷土史家菅澤子之助氏の記録によると、応永元年(1394)創建で、別当は万福寺であったと記されていて、石段、鳥居、本殿を見ても当時の村人の信仰の深さが偲ばれる。社前の鈴には弘化乙巳(1845)飯笹陣屋大谷進太夫と刻まれており、区有文書に、宝暦2年(1752)から元治2年(1865)までの「御奉社日記」がある。
旧飯笹村の鎮守である。由緒について「社寺明細帳」には、応永10年(1403)勧請と記されている。ある時代には、村社として隣接9ヶ村の総鎮守で、毎年「神楽」が奉納され、この行列が通った坂に「神楽坂」と名が付いたといわれている。また、境内林も広大で、その上巨木が多く、大正の頃までは飯笹の鎮守の森として広く知られていた。
旧間倉村の鎮守である。由緒について「社寺台帳」には、慶長2年(1597)勧請と記されている。一説には、この村は飯笹村から移ってきた者が多いため、故郷の鎮守様を分祀したともいわれている。そして本殿内に残された棟礼には寛保2年(1742)と記されていた。
五辻集落の鎮守である。この集落は、明治44年(1911)にこの地方の農産物を消費地に運ぶ目的で、県営鉄道「五辻」駅ができたことから生まれたもので、社前の道路が飯笹村と間倉村の境になっている。しかし、実質的には何事も旧一村としての行事を行っている。社も大正7年(1918)に茨城県笠間町から勧請した。
旧一鍬田村の鎮守である。由緒について「社寺台帳」には、元和5年(1619)勧請と記されている。この村は取香牧に囲まれた野付村だけに古い風習が残り、その一つに境内やしろの三峰神社に毎年代参を送り、帰って来て当番は竹ヒゴで井形を作り、交わる4ヶ所に輪にした竹ヒゴを通した物を供えている。現在そのいわれを知るものはいない。
旧十余三区の鎮守である。この周辺は、古い馬牧であった地を、明治の初めに政府の後援によって開拓され、13番目であったことからこう名付けられた。明治4年(1871)に開拓の成功を祈って石宮を祀り、明治13年(1880)に生活も安定した頃に、改めて鎌ヶ谷市初富の豊作稲荷を分祀したといわれている。
旧桧木村の鎮守で、旧称は妙見様といった。この村は、佐倉藩管理の取香牧の野付村(牧隣接村は牧場作業の義務があった)で、他の村々とは違った村の年中行事があったと思われるが、牧士であったか葵の御紋付の文箱まであった大森家文書が散失したため、内容を知ることは出来ない。
旧出沼村の鎮守である。由緒は不詳と言われているが、この村の地形は北、西の風が遮られ南に開け日当たりが良く、家毎に湧水があって遠い昔から人の生活が営まれていたと思われる。それを裏付けるかのように横穴古墳があり、正応2年(1289)と刻まれた板碑(石造卒塔婆)もある。このことからも、社の古さが偲ばれる。
旧本三倉村の鎮守である。長徳3年(997)勧請の伝承があって、毎年のおびしゃの神事も古式に拠って行われており歴史を偲ばせる。そして、「天正拾九辛卯(1591)霜月十三日、下総国香取郡千田庄三倉村御縄打水帳」も残されていた。