全日本の観光地へ
廃普賢寺の本堂で、建立年代は棟札により文明10(1478)年の上棟であることが知られていますが、昭和の修理で見つかった多くの墨書から「応仁の乱」の間に建築が中断し、完成まで30年程要したことが判明しました。本尊の大日如来坐像は、鎌倉時代の作とされ、国の重要文化財に指定されています。
久米仙人ゆかりの寺。推古天皇の勅願により用明天皇の皇子、聖徳太子の弟である来目皇子によって建立されました。創建のきっかけは、7歳の時に眼病を患った来目皇子が、この地で治癒祈願し全快した御礼だったとされ、本尊の薬師如来像にお願いすると眼病に霊験があるとされています。境内にある多宝塔は重要文化財に指定されています。
植山古墳は、東西長約40m、南北長約32m、高さ約5mの長方形墳です。墳丘の周りには、「コ」字型に壕が巡らされています。埋葬施設は、2基の横穴式石室(東石室・西石室)をもつ「双室墳・双室墓」が並んで設けられています。また、東石室は6世紀後半、西石室は7世紀前半に築かれたものと考えられており、被葬者については、築造時期から推古天皇と竹田皇子の可能性が考えられています。
新沢千塚は総数約600基からなる古墳群で、日本を代表する群集墳(ぐんしゅうふん)でもあります。古墳群は、市南側で高市郡高取町との境界となっている貝吹山(かいぶきやま)から四方に派生する尾根のうち、北西方向に伸びる低い丘陵上に立地しています。
奈良市にある西の京の薬師寺の前身にあたる寺の跡。天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気回復を祈願して、天武9年(680年)に建立に着手。完成しないうちに天武天皇が崩御したので、持統天皇がその遺志を継いで完成させました。平城遷都に伴い本薬師寺となり、現在は小堂と礎石や土壇が残っています。
丸山古墳(まるやまこふん)は奈良県最大の前方後円墳で、全長約310m、後円部径約150m、前方部幅約210m、周濠を含めると全長約420mにもなる超大型の前方後円墳です.6世紀後半に築かれたと考えられています。この古墳はあまりにも大きいため全体像が分からず、円墳と考えられていた時代もありました。そのため、前方後円墳であるにもかかわらず丸山古墳と呼ばれているのです。
持統,文武,元明天皇の三代16年間(694〜710年)の宮跡。藤原京は、中国(唐の長安)を模して造られた日本初の本格的な宮跡。大小の道路によって区画され、「条坊制」という町割り制度が敷かれていました。宮殿建築で初めて屋根に瓦を葺くようになりました。また,役所にあたる朝堂院は平城京の朝堂院より大きかったそうです。“春すぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香具山”持統天皇の歌はここで詠まれた。
橿原市の南東部、明日香村との境界線付近に位置しています。墳丘の形状は一辺約30m、二段築盛の方墳。横穴式で内部に家形の石棺二個が納められています。石室部分が国の史跡に指定されています。
〜たのしくてためになるやさしい科学のおもちゃ箱〜子供から大人まで体を使いながら遊べる科学施設です。スペースシップシュミレーターを中心に、力、電気と磁石、光と音、くらしの環境、宇宙への旅立ち5つのゾーンとパソコンルーム、シアタールームがあります。不思議でおもしろい科学の世界を楽しんでください。
今井町は、この寺(称念寺)を境内地に発達した寺内町である。本堂は、近世初頭に再建されたもので外回りに角柱を並べた大規模真宗寺院の特徴をよく表した建物で、大きな入母屋造本瓦葺で東面している。付属の建物も数多く存在し、明治10年、天皇の畝傍御陵行幸のときの行在所となった。