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孝子浜田六郎が父の平癒を祈り神夢により日奈久温泉を発見した。この御神徳を仰ぐため湯の神市杵島姫命を祭神として弁天社を建立したことに始まる。
八代城主松井家の菩提寺で、臨済宗南禅寺(京都)の末寺。寺名は松井家初代康之の法名「春光院」にちなみ、久美浜(京都)、木付(杵築)、小倉、熊本を経て、延宝5年(1677)、この地に移った。本堂の背後に、松井家歴代夫妻の墓が整然と並ぶ廟所がある。背後の山には、古麓城(中世の八代城)があり、天正15年(1587)秀吉が八代に滞在した際には、ここでポルトガル人宣教師ルイス・フロイスらと面会している。明治10年(1877)の西南の役では戦場となり、所々に弾痕が残っている。句碑寺、アジサイ寺としても知られる。
後醍醐天皇の皇子で、征西将軍としてこの地で足利軍と戦った懐良親王を主祭神とし、懐良親王没後に征西将軍職を継いだ良成親王を配祀する。地元では「将軍さん」の愛称で呼ばれている。建武中興十五社の一社である。境内地は、八代城本丸跡で県指定史跡。
八代神社は、妙見宮とも呼ばれ、上宮、中宮、下宮の三社よりなり、本社はその中の下宮。この八代神社(下宮)は、文治2年(1186)八代平野の要の位置にあたるこの地に建立された。現在の建物は、元禄12年(1699)と寛延2年(1749)に本格的に改築されたもの。社殿は熊本県の重要文化財に指定されており、屋根は入母屋造りで、正面に千鳥破風が設けられ、これらの妻飾りには数多くの彫刻が使用され、江戸時代中期から後期にかけての社寺建築の特徴をよく表している。11月22・23日にある祭礼(妙見祭)は、九州三大祭りのひとつに数えられ、「八代妙見祭の神幸行事」として、国の重要無形民俗文化財になっている。
現在、明言院のある一帯は、奈良時代から平安時代にかけて栄えた古代寺院のあったところで、発掘調査により寺域は167メートル四方、築地塀をめぐらし、正面に南大門、中門を通ると右に三重の塔、左に金堂、中央奥には講堂を置く伽藍配置(法起寺式)であったことが確認されている。その後、延喜5年(905)天台宗妙林寺が創建されたが荒廃。治承2年(1178年)平重盛の命により平貞能が再興し、興善寺と改めた。南北朝時代、名和氏が顕興寺を建立。江戸時代前期に明言院秀盛が再興。収蔵庫に安置されている毘沙門天立像(国指定重要文化財)は、平安時代後期の作で、九州に多い樟材を用いた一木造、高さ146.2センチメートル。熊本県の平安彫刻を代表する優れた造形の仏像である。
松井家初代松井康之、2代興長(八代城主初代)を祀る。境内地は、八代城北の丸だったところで、はじめ加藤正方が母妙慶禅尼の隠居所を建て、加藤家改易後は細川忠興(三斎)が居住し、庭園を整備した。1881年(明治14年)、松井家の旧家臣団をはじめ、ゆかりのある人々により創建された。境内にある臥竜梅(がりょうばい・熊本県天然記念物)は三斎が自ら植えたと伝えられ、毎年2月に風格ある大輪の花を咲かせる。
元和8年(1622)に加藤忠広の命により加藤正方が球磨川河口に築城。3年前の同5年に地震で麦島城が倒壊したのを機会に新城建設を幕府に願い出て、麦島城の石を利用して築城した。一国一城令後に築城許可となった珍しい城。白鷺城・不夜城・松江城ともいう。現在は、天守台と石垣・堀の一部を残すだけで公園として開放されている。明治3年(1870年)に廃城となり、同13年、本丸跡に八代町民の願いにより、南北朝時代の後醍醐天皇の皇子懐良親王顕彰を祭神とする八代宮が創建された。熊本県指定史跡。
水島は、球磨川河口の堤防から50mほど離れた所にある小さな島で、日本書紀の景行天皇18年4月の条に、「天皇がこの島で食事をなさろうとした際、水が無かったので、小左(おひだり)という人物が天地の神々に祈ったところ冷水が湧きだしたので、それを天皇に差し上げることができた。そのためこの島を水島と呼ぶ」と記されている。万葉集では長田王により「聞きし如まこと貴く奇しくも神さび居るかこれの水島(人の言うように、貴く不思議にも神々しく見えることよこの島は)」と歌われている。「不知火」とともに、八代海(不知火海)における天皇巡幸故事にまつわる景勝地として国名勝に指定されている。
営業時間:10:00〜17:00 休館日:木曜日1月1日〜1月3日
松中選手の郷土八代に対する熱い思いにより、八代市にご寄付いただいたスポーツミュージアムです。これまでの活躍により獲得された多くの記念品や使用されたバット、グローブなどが展示されています。
営業時間:9:00〜17:00 休館日:月お盆、年末年始も休館。6月は休館日無し。
八代城主松井直之が母、崇芳院尼のため造った茶室。「浜の茶屋」として人々に親しまれています。国の指定名勝。