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如意山地福寺

真言宗の寺である。由緒について、一説にはこの村の飯塚家に生まれて武芸の道の「香取神道流」を創った飯笹長威斉家直(1387〜1488)が菩提寺として創建したものと言われる。そのことを証明するように、「過去帳」の冒頭に「神刀流元祖伊賀守平長栄飯笹地福寺を草創す」と記されている。

一鍬山福泉寺

多古町内で唯一の禅宗(曹洞宗)の寺である。由緒については、「過去帳」の冒頭に「前永平長興五世当寺開山南渓用浦大和尚元和九年(1623)示寂・・・・・」と記されている。この寺は大正9年、当時の住職竹内道拙師が、少年更正事業を興し、星華学院の前身を創った。また近年では「山びこ学校」の無着成恭氏が住職だったことで広く知られている。

稲荷山成就院

真言宗智山派の寺である。寺の名前より木食様のほうが有名で、中興の祖である神崎町小松出身の俊弁和尚(1667〜1737)が、木食修行の後、信者の安産子育てを誓願して、自ら作った石室に入り、即身成仏された聖域である。裏のナンジャモンジャの木皮は安産の護符ともいわれている。

熊野山東光寺

真言宗智山派の寺である。縁起を伝えるものは寺にはなかったが、村の穴沢家の古文書によると、同家は松子城(成田市(旧大栄町))主大須賀氏の家臣であったが、落城の時逃れてきて村に住み、丹波守常久の代の文禄2年(1593)に祈願所として建立したと記されている。現在の建物は近年新築されたものである。

阿遮羅山福寿院西徳寺

真言宗室生寺派の寺である。この村は、文明年間(1469〜1486)には千葉氏の一族木内七郎正胤の居城であったとする一文が伝えられていて、村人の住いはこの城跡の上に作られている。山門のあたりの佇まいは、それを裏付けるようである。そして町内でも数少ない「大般若経」を所蔵している。

宝光山泉光院永台寺

真言宗智山派の寺である。寺伝には文永7年(1270)法印定恵開山と記されていて、本堂棟礼に延宝4年(1676)とあって、まれに見る建築年のはっきりとした建物である。そして境内には私塾の顕彰碑と並んで、俳句隆昌の時代を偲ばせる芭蕉の句碑がある。「涅槃会や皺手会する数珠の音」むせ越弘化4年(1847)これに並んで、「咲てさえ淋しきものよ苔の花」竹茂安政2年(1855)がある。

熊野山千手院観音寺

真言宗智山派の寺である。寺の文書の「観音寺什帳」に「往昔相馬小太郎一族菅井対馬守主従十二人芝山台ニ落着而・・・・・」と村の歴史を記し、また、村には各屋敷の内に湧水池と一枚の板碑を保存していた家が五軒あった。これも昔の血縁集団の名残であろう。

土橋山東禅寺

真言宗室生寺派の寺である。由緒書はないが、かつてあった梵鐘に天平年中(729〜747)鑑真創建と刻字されていたという。また、金沢文庫(横浜市)文書により本如房湛睿律師(1271〜1346)が当寺の長老であったことが立証され、更に「鎌倉大草紙」等多くの史書に、この寺で康正元年(1455)千葉氏16代胤直一族が自刃したと記されていることから、左手奥の墓地に建つ7基の千葉氏供養塔へは、多くの地方史研究家が訪れている。このあたり一帯が土橋城域であったと今も語り継がれている。

正峰山妙興寺

『歴史の重さを感じさせる名刹、峰の寺』寺域に本堂、山門、鐘楼などが建ち並び歴史の重さを感じさせる名刹、正峰山妙興寺。日蓮上人の直弟子、中老日辨によって正安2年(1300)年に創建されました。二世日忍の時に現在の峰の地に移り、山号を正峰山と改めて以降、通称「峯の寺」と呼ばれています。威風堂々たる構えの山門は明和2年(1765)、三世日精の代に建てられ、多古藩主の定紋が附されています。寺には、弘安2年(1279)に日辨に与えた日蓮直筆の曼陀羅、立正安国論草稿のほか、日辨御持扇地紙、日祐・日尊・日親の曼陀羅、正木大膳時茂、原胤栄の制札など、多数の寺宝が所蔵されています。また寺内には、多古藩主久松氏の墓地、演劇で有名な「鏡山おはつ」のモデルとされる忠婢さつの墓があります。

法性山浄妙寺

『1200年の時を経た多古町最古の寺』法性山浄妙寺は天平宝字年間(757〜764)の創建と伝えられる多古町最古の寺です。もとは律宗の寺院であったのが真言宗となり、貞和2年(1346)日祐によって日蓮宗に改宗され、釈迦仏を本尊とする日蓮宗寺院として現在にいたっています。天正5年(1577)には多古城主牛尾胤沖の制礼があり、天正19年(1591)には徳川家康から寺領12石の寄進を受け、そののち歴代将軍から朱印状を賜りました。山門に掲げられた扁額の「法性山」の文字は、寛保2年(1743)京都宝鏡寺の本覚院宮古稀の筆によるもの。また寺を守護する一対の金剛力士像(仁王尊)と仁王門は宝暦十二年(1762)の造建立で、当時の記録によれば仁王尊の身長は六尺三寸、制作代金は二十六両三分であったそうです。

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