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源氏三代の墓

河内源氏の祖であり、鎌倉幕府を築いた源頼朝(みなもとのよりとも)を子孫とする、源頼信(よりのぶ)ら3人が眠る墓。河内国司として現羽曳野市壺井に居を構え、時の摂政関白・藤原道長に仕えた頼信、そして平安時代後期の前九年の役や後三年の役で活躍し、武将としての地位を築いた頼信の子・頼義(よりよし)とその孫・義家(よしいえ/後に八幡太郎と号されている)は、その後「河内源氏三代」と呼ばれるようになり、地元では現在も様々な逸話が語られている。通法寺は、長久4年(1043)に頼信と子の頼義がともに氏寺として創建した寺で、南北朝時代などの兵火で焼失し、その後再建されたものの、明治時代に廃寺となった。現在は、その跡が国の史跡に指定されている。3人の墓はその跡地付近に、それぞれ別々に残されている。「写真提供・羽曳野市教育委員会」

清寧天皇陵古墳

清寧天皇陵古墳は、前方後円墳。墳丘長約115メートル、後円部約60メートル、前方部の幅約121メートル、幅30〜50メートルの濠を持つ。前方部が極端に大きく広がっているという、6世紀代の特徴を持った古墳だ。埴輪の編年からも、6世紀代のものと推定されている。この古墳は、白髪山古墳とも呼ばれている。

墓山古墳

羽曳野市役所の西側に位置する墓山古墳は、古市古墳群に属し、古墳群の中でも5番目の規模をもつ前方後円墳である。墳丘長225メートル、後円部直径135メートル、高さ20.7メートルで、前方部の幅153メートル、高さ19.3メートルである。周濠は全体をめぐっているが、北側の最も広い部分で幅38メートル、後円部の南側では幅15メートルと狭くなっている。墳丘内部の状況は明らかになっていないが、古市古墳群の中でも、大王陵級の規模をもつ古墳と考えられている。この後円部からは、長さ1.5〜2.5センチメートルの勾玉(41点)、家形・短甲形・靱形・盾形・蓋形の形象埴輪などが採集され、宮内庁書陵部などに所蔵されている。

河内大塚山古墳

河内大塚古墳(大塚陵墓参考地)は、前方後円墳。墳丘長約335メートル、後円部約185メートル、前方部の幅約230メートル、幅35〜70メートルの濠を持つ。全国第5位の規模を誇る大きな墳丘で、時代とともに形態を変えていった前方後円墳の最終段階にものといわれている。5世紀後半から5世紀末にかけてのものとされている。古墳は東西を二分するように、松原市西大塚と羽曳野市恵我ノ荘にまたがっている。

翠鳥園遺跡公園

営業:4/1〜10/319:00〜21:0011/1〜3/319:00〜18:00

翠鳥園遺跡(すいちょうえんいせき)は、平成4年(1992)の発掘調査で羽曳野市のほぼ中央に発見された、2万年前の石器づくりのアトリエ。遺跡からは30か所以上の石器づくりの跡と、サヌカイトといわれる加工しやすい石でできた石器や石のかけら約2万点が見つかっている。平成10年(1998)、この遺跡は公園として整備され、見学テラス、学習解説施設の映像や展示などによって2万年前の様子が紹介されている。公園入り口には、石器をつくるために割ったサヌカイトをテーマにした大きな輪切りの卵型モニュメントがそびえる。中に入るとサヌカイトの不思議なサウンドが響くそうだ。「写真提供・羽曳野市教育委員会」

安閑陵古墳

安閑天皇陵は、前方後円墳。墳丘約122メートル、後円部約78メートル、前方部の幅約100メートル、幅約15メートルの濠を持つ。古墳時代後期の特徴を持っている。安閑天皇は、継体(けいたい)天皇の皇子で、在位2年で崩御したとされる。江戸時代にここから出土した「玉腕」は、イランで作られたもので、現在は東京国立博物館に保存されている。

白鳥陵古墳(日本武尊白鳥陵)

白鳥陵古墳は全長約190メートル、後円部の径約106メートル、前方部の幅165メートルの前方後円墳で、幅40〜80メートルの濠が巡っています。この古墳は、日本武尊(やまとたけるのみこと)の墓であるという伝承があります。日本武尊は、クマソを攻めた後、東国の蝦夷(えみし)と戦い、その帰途、伊勢で没した。そのとき日本武尊は白鳥となって、大和の琴弾原から古市にとどまり、そして西方に向け、羽を曳くがごとく飛びさり、天高く飛び上がってきえた。これが白鳥伝説で、この伝説から、白鳥が飛び越えた丘のあたりを「羽曳野」というようになったといいます。

吉村邸(吉村家住宅)

営業:見学の際は事前予約要

近鉄南大阪線高鷲駅から徒歩15分のところにある吉村家は、『平家物語』などでその活躍が描かれた、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将・佐々木高綱(ささきたかつな)の子孫であり、江戸中期には現羽曳野市一帯の18の村の大庄屋でもあった。住宅は元和元年(1615)の大坂夏の陣で焼失したが、直後に再建。現在の主屋はこの時の建築のものだが、後表門・土蔵など附属の建築物と1600坪の敷地、背後の山林はその後の増改築などを経て、寛政年間(1789〜1801)頃に、ほぼ現在の姿となった。吉村家住宅は、桃山時代の書院造りの建築様式を一部に留める代表的な豪農の建物であるとして、民家建築では初めて国の重要文化財に指定されている。見学には予約が必要。「写真提供・羽曳野市教育委員会」

柏原市観光ぶどうセンター

営業:8月上旬〜10月中旬9:00〜最終入場13:00(土日祝は15:00まで)※最終入場後17時頃まで楽しめます。 定休日:期間中無休

柏原ぶどうは、「河内ぶどう」あるいは「堅下ぶどう」とも呼ばれている。栽培の歴史は古く、大阪のぶどう生産地として有名である。現在は、大阪をはじめ各地にも出荷販売し、観光ぶどうやぶどう宅配便などの新たな展開も行われている。地元産の「柏原ワイン」も人気。

壺井寺

近鉄大阪線法善寺駅下車5分、河内西国霊場第七番寺にあたる壷井寺。もともとは平安時代に法禅寺という寺院があった場所へ再建され、また現在の本堂は明治20年(1888)に廃寺になった永興寺(旧布忍寺)の建物を移築したものと伝えられている。本堂に安置されている銅造菩薩立像は総高26.2cmと小さいが、均斉のとれた優美な像で、白鳳期の勢至(せいし)菩薩像、もとは金銅仏であったろうと考えられ、現在は大阪府の指定文化財。また「避雷観音」という別名もあり、昔、この地域へ頻繁に雷が落ち大きな被害をもたらしていたところ、その被害にあった人々の祈りを聞き届けて観音様が雷と対決、以来このあたりには雷が落ちなくなったと伝えられている。

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