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江戸時代後期に活躍した戯作者、滝沢馬琴(1767〜1848)の墓。馬琴の作品数は200数十種にも及ぶが、中でも『南総里見八犬伝』は106冊の長編である。馬琴は晩年失明するが、長男の妻であった路女(みちじょ)に文字を教えながらの口述筆記により八犬伝を完成した。路女は路霜大姉の法名をいただき、馬琴の墓の後ろに眠る。
明治・大正期に活躍した文芸評論家・詩人・随筆家、大町桂月(1869〜1925)の旧居跡。人生のわびさびを語り、人間味あふれ、酒と旅を愛した。ここには、明治42年から没するまで住んだ。
明治の歌人・詩人・評論家、石川啄木(1886〜1912)の旧居跡。蓋平館の住まいから朝日新聞社の校正係の職を得て新築間もない理髪店、喜之床の2階を借りて家族そろっての生活であった。明治42年から小石川に移るまでの2年間の住まいである。なお、旧家屋は愛知県犬山市の「明治村」に移築保存されている。
農政学者・教育者として活躍し、国際連盟事務局次長として「太平洋のかけはし」として知られる新渡戸稲造(1862〜1933)の旧居跡。盛岡・南部藩士の子として生まれ、内村鑑三らとともに札幌農学校に学んだ。その後、東京帝国大学に学び、アメリカ、ドイツに留学し帰国後は自由主義的、人格主義の教育者として多大な影響を与えた。この地には、明治37年から没するまで住んだ。
詩人・小説家として知られる佐藤春夫(1892〜1964)の旧居跡。中学時代に石川啄木選の『明星』や『スバル』の歌壇に作品を寄せた。与謝野鉄幹や永井荷風に師事し、谷崎潤一郎との交流も深く、後年森鴎外の孫弟子と称した。『殉情詩集』『田園の憂鬱』『晶子曼陀羅』など数多くの作品を世に送り出す。1960年文化勲章受賞。この地には1927年から没するまで住んだ。伝通院に眠る。
高村光雲の長男で、詩人・彫刻家として活躍した高村光太郎(1883〜1956)の旧居跡。東京美術学校入学、『明星』に短歌を発表の後、明治39年に欧米留学し、パリを中心とする欧米の芸術運動に遭遇した。明治44年、洋画家を志す長沼智恵子と出会う。大正3年、詩集『道程』を発表、同年智恵子との生活をはじめる。明治16年『智恵子抄』刊行。ここには、大正元年から空襲で焼失し花巻市へ疎開した明治20年まで住んだ。現在は案内板がある。
歌人・国文学者として知られる窪田空穂(1877〜1967)の旧居跡。長い生涯の文筆活動は多彩で、短歌、小説、随筆、歌論、評釈等に活躍の場は広範囲にわたる。坪内逍遥の推薦で母校早稲田大学に勤務し、講師、教授として多くの人を育てた。現在は、案内板がある
小説家・評論家として知られる永井荷風(1879〜1959)の旧居跡。この地に生まれた荷風は、後に『狐』『日和下駄』などの作品で当時のことを著している。欧米から帰国した後には、耽美主義の反自然主義文学の中心的作家となり、『あめりか物語』『墨東綺譚』『断腸亭日乗』等を発表した。
哲学者・詩人として知られる井上哲次郎(1855〜1944)の旧居跡。ドイツ留学から帰国後、東京大学教授となり、それまでの英仏系哲学に対し、新たにドイツ系哲学を唱えた。新体詩運動にも深くかかわり、『新体詩抄』の著書もある。明治25年の帰国時から没するまでこの地を愛し住んだ。旧宅は第二次大戦で焼失したが、書庫であった土蔵が今も残る。
富士講中興の祖。富士信仰の布教につとめた。