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この地は古い馬牧で、取香牧と呼ばれた地帯である。明治の初めに江戸の失業者救済事業として、政府は開墾会社を設立して開拓を始めたが、江戸の人々が定着せず失敗した。その後を引き受けて開拓を成功させ、現在の十余三の繁栄の基礎を築いたのが、高津原で生まれた貴族院議員菅澤重雄翁(1870〜1956)である。篆額は徳川家正公爵、撰文は文学博士塩谷温先生、書は翁の師である並木栗水先生の孫熙太氏が書いたものである。
市原正夫邸に建てられている。この地は正面の大地が多古藩陣屋跡(現小学校)で、50メートル程のところに大手門跡があり、大手通りで昔からの繁華街で、同家は「蔦屋」という近隣町村に知られた川魚専門店であった。同家に大正14年(1925)8月24日牧水夫妻が宿泊して、その折に詠まれた夫妻の歌の直筆を、原寸の比翼の碑としたものである。「はるけく日はさし昇り千町田のたり穂の露はかヾやけるかも」牧水「通り雨ふりつよみ来て瑞居するゆかたのたもとぬれにけるかな」喜志子
多古町内では唯一の天然の滝である。昔このあたりは多古妙光寺の境内で、瀧も庭園の一部であったと言われている。この水は母乳が豊富になるということで、多くの信者を集めた時代もあった。また俳人訥堂はこう書いている。「六百年の昔より、祖師の教へと今も猶ほ、桜染井の糸滝は、眼の薬ぞと仰がるる」
文永2年(1265)と刻まれていて、多古町では最も古い板碑(石造卒塔婆)である。この地は、もとは三倉と呼ばれており、古い時代から開発されたと思われる地であはあるが、文永の役を間近にした時代に、石を産出しないこの村へ供養の為にこれだけの物を建てる経済力を持った人が住んでいた証である。
大童子は相撲の四股名で、実名は峰吉(1720〜1789)といい、芝山町小原子の木川家に生まれ、体重六七貫(251kg)身長七尺二寸(2.18m)あって大関まで昇進した。若い頃の力持話を数々残し、晩年は故郷の不動尊の堂守をして平穏に過ごしたと言う。しかし佐原街道の傍のここに建てられたのは謎である。(芝山町史より抄出)
この地に生まれた並木栗水本名左門(1829〜1914)は、江戸の大橋訥庵の「思誠塾」で学び、やがて塾頭になった。晩年の慶応2年(1866)故郷の此処に「螟蛉塾」を開き多くの門弟を薫育した。ここに建つ碑の題字は徳富蘇峰、碑文は内田周平、書は門弟で町内高津原出身の貴族院議員菅澤重雄氏の書いたものである。
明和7年(1770)の縁起書もあり、弘法大師が全国行脚の折に立ち寄った伝説もあることから、石芋大師とも呼ばれている。法力により池中に供えられている芋が、冬でも青々と芽を吹いている。また、句碑の多いことでも有名で、「山路来て何やらゆかしすみれ草芭蕉」寛政8年(1796)裏面には宗瑞の隠語名がある。宗瑞の辞世「ほととぎすいでや明るき西の空」「古池や蛙とびこむ水の音芭蕉」文政6年(1823)裏面に「氷らぬは氷らで寒し水の音」「夕暮れは空に声あれ鐘に雲」他に2、3基は判読できなかった。
旧南並木村の鎮守である。社伝によると、元和3年(1617)村の佐藤勘兵衛付し阿に夢のお告げがあって、南中村大桐の祠からこの地に遷し、寛文元年(1661)に社殿を造ったと記されている。そして遷座の時にご神体を乗せた「馬の轡」が飯田惣右衛門家に伝えられていて、御利益によって子供の風邪が治ったことから次々と又貸しされて、一時は行方不明であったが、偶然飯田家当主によって、茨城県水戸市で発見され、以来今でも大切に保管されている。
旧南借当村の鎮守である。由緒について「神社明細帳」には、寛永10年(1633)創立と記されているが、一説には合祀されている妙見社の方が古くから祀られていて、享徳、康正年中(1452〜1456)中村但馬守が居城した中城の鬼門にこの地が当たるため、守護神として祀られたものとも言われている。
旧南中村鴻巣集落の鎮守である。由緒については、唱和3年(1928)の区長報告書によると、昔、千葉胤貞がこの地に中城を築き、その鬼門の方角に守護神として祀った。千葉氏亡き後、葉木氏が氏神として自宅内に移したが、村人の信迎が厚かったので、天文年中(1532〜1554)現在地に遷座したと記している。今も城跡を偲ばせる堀跡等が社周辺に点在している。