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日蓮宗の寺である。「寺院明細帳」には由緒不明と記されているが、境内石塔場の内の一基に次の様に由緒の一端が刻まれている。この北中村坂並集落は、貞享3年(1686)から開発が始まって、宝永2年(1705)に寺を作ることなった。そして翌宝永3年(1706)に本土寺の末寺で日詮開基により、一山が創立されたとある。この地は、大鯉新田とも呼ばれ、柏熊新田と同じに、開発責任者は多古藩家老服部与五左衛門であった。その供養塔も境内に建っている。
日蓮宗の寺である。由緒について寺伝には、貞治3年(1364)日朝上人の開基で多古、島も同じ開基で三妙光寺という、とある。この寺は板碑(石造卒塔婆)の多いことが有名で、応安5年(1372)と刻字されたものを始めに、長禄1457〜1460年まで10枚余を数える。また南中五軒堂といわれた郷士の平山藤右衛門の弟で、鏑木(現旭市)に移住した平山忠兵衛家の菩提寺になっている。
日蓮宗の寺である。この寺で日圓師が開講したのが、中村壇林の始まりだと言われている。それだけに壇林日本寺との関係も深く、この寺の由緒について日本寺の「談林年貢帳」に次のように記されている。正中、嘉力(1324〜1329)の頃、千田庄の領主千葉胤貞は中山法華経寺三世日祐に帰依して、わが子2人を日胤、日貞と名づけて日祐の弟子とし、日祐を開基日胤を住職として東福寺を創立したとある。その後、天正15年(1587)には中山十代日院師も当寺に隠居している。
日蓮宗の寺である。由緒について、天保14年(1843)に本山に提出した文書によると、宝永3年(1706)開山日宝大徳とある。しかし「過去帳」には文政・明治の火災により開基・創建・歴代年代は不明だが、近年応安2年(1369)の刻字のある題目板碑(石造卒塔婆)が発見された。そして名主縫之丞の記録には、文政10年(1827)明治4年(1871)両度の法眼寺火災が記されている。
真言宗の寺である。由緒について、「社寺台帳」には、文禄2年(1593)創立と記されている。境内の薬師堂に納められている本尊の背部に「享禄2年(1529)牛尾氏・・・・・」と記されていて、多古城主牛尾氏について手がかりの一端を残している。またこの寺の裏山一帯が牛尾城跡と言われている。
日蓮宗の寺である。由緒について、「社寺台帳」には、天文23年(1554)創立とあり、寺伝には、多古城主牛尾胤仲公三男が宝永4年(1707)、真言宗から日蓮宗に改宗し、名も日意と改めて開山と書かれている。そして本堂裏の池畔に、村の俳人で百川と号した山辺八郎左衛門が、天保6年(1835)に建てた芭蕉の句碑がある。「ほろほろと山吹ちる耶瀧の音」むせ越「ちるものと思へば花になみだか那」百川
日蓮宗の寺である。由緒について、「社寺台帳」には、元禄2年(1689)創立と記されている。そして語り伝えによると、本尊は今でも地名に残る釈迦台から出土したという。幕末から近年まで、幼児の夜泣き、虫封じにご利益があると多勢の信者が訪れ、その名残りは多くの絵馬に見られる。堂内の天井絵も、時代を忘れさせる鮮やかな色を見せている。
日蓮宗の寺である。由緒について、「寺社台帳」には不詳と記されている。しかし、昔この寺の近所にあって、現在居射にある妙光寺日朝上人開山の日朝上人が隠居寺として建てた寺で、そのため両寺ともに開山日朝上人で、山号も同じく妙印山となっている。
日蓮宗の寺である。由緒について、「法林寺由緒」には、延元3年(1338)日祐聖人により日蓮宗に改宗したとある。もとよりこの村は遠い歴史を伝える村で「愛子塚」の上にあった石碑の断片には延応2年(1240)と刻字されているなど、当然寺にも日蓮宗以前の宗派があったと思えるが、不受不施派信者の多いことから、寺の歴史は埋もれてしまったのではないか。
真言宗の寺である。由緒について、「寺社台帳」には不詳とされている。しかし古い寺らしく、明治の初めには一時小学校として使用されたり、大正に入っては旧東佐野村の満福寺を合併するなどの変遷はあったが、法燈は絶えることなく、今も月に一度三十三年忌を過ぎた祖先の霊を供養する「百万遍」が行われている。