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願得寺

願得寺は、15世紀末に本願寺第8世蓮如上人が、門真の地に開いた念仏道場がはじまりとされる。16世紀後半に蓮如の第10男兼俊実悟(けんしゅんじつご)が、道場を譲り受け、願得寺と号すようになった。寛文5年(1665)の再建と伝えられる本瓦葺き本堂や江戸初期につくられた切妻造りの鐘楼、17世紀中ごろに建立された山門は大阪府の文化財に指定。玄関や客間、書院、太鼓楼(たいころう)は、それぞれ国の登録有形文化財。4,700平方メートルの敷地には、門真市指定の保存樹である楠の大木が繁る。

陵南の森歴史資料室

営業:9:00〜17:00 休業:年末年始

この資料室の魅力は、何といっても展示されている品々の質の高さだ。古墳の多さでは日本有数の羽曳野市から出土した一級品ばかりが展示されている。時代ごとに分けられているので、とても見やすい展示内容になっている。また、所狭しと並べられている土器の保存状態は、まるで古代人が自分達の生活ぶりを残すために作り置いてくれたのではないかと思うほど良い物が多い。展示室は、スペースこそ小さいものの、こまめに展示品の入れ替えを行い、訪れる人の目を飽きさせないように工夫している。

薄田隼人正兼相の墓

大坂夏の陣で、豊臣方武将として活躍した薄田隼人正兼相(すすきだはやとのしょうかねすけ)の墓と供養塔が誉田史跡公園にある。「道明寺合戦」の際、誉田八幡宮付近に陣を構えていたが、濃霧のため後藤又兵衛・真田幸村・毛利勝永軍と合流できず、10万の徳川軍に撃破されて討死にしたという。薄田兼相は豊臣秀吉・秀頼に仕えた武将で、後に岩見重太郎として伝説化されたほどの剛勇の士である。この墓地は、明治18年、兼相の子孫にあたる広島藩主の浅野家一族によって建立され、1996年(平成8年)には、市の有形文化財に指定されている。

長円寺

長円寺は1769年(明和6年)に一度焼失し、寛政時代に再建されたが、1801年(享和元年)4月には無住の状態に陥っていた。現在の本堂の原型は、寛政再建時の本堂を1832年(天保3年)に改築したもので、今も歴史の物語を感じることができる。また、観音堂には、重要文化財の木造十一面観音立像が安置されている。

法泉寺

元々は、近隣の野中寺の奥の院として創建されたものの、1730年代に黄檗宗の僧「格外衍機」(かくがいえんき)が荒廃した寺院を再興して、亀池庵・宝泉寺となったものが現在の法泉寺の祖となっているそうだ。御本尊は、府指定重要文化財でもある平安初期作の木造・聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)の立像で、大阪府下では数少ない聖観音である。また、日本一大きい高さ10尺(約3メートル)、重さ100貫(375キログラム)の大弁財天立像(だいべんざいてんりつぞう)があり、古くは「河内名所図会」などで亀池弁財天として紹介されている。その他にも、美しい曲線を描く透かし彫りの朱塗牡丹文猫脚型卓(しゅぬりぼたんもんねこあしがたたく)も府指定重要文化財となっているなど見所の多い寺院である。

壺井八幡宮

羽曳野市の南端にある壺井八幡宮は、後に鎌倉幕府を興した源頼朝の祖「河内源氏」の氏神。康平7年(1064)、源頼義(河内源氏初代・源頼信の子)が前9年の役に出陣する際、戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮の神霊を勧請して、壷井にある私邸の東側に祀ったのが始まりとされている。八幡宮には、頼義の子・八幡太郎義家が愛用したとされる鎧「黒韋威胴丸(くろかわおどしどうまる/国の重要文化財)」や「天光丸の太刀(てんこうまるのたち)」が伝わる。境内には、樹齢800年とも言われる楠木が悠然と枝を伸ばしている。また八幡宮の西側には、天仁2年(1109)に、義家の六男・源義時(よしとき)が、頼信、頼義、義家の霊を祀ったとされる壺井神社がある。壷井そして300mほど離れた通法寺付近は、このあたりが河内源氏の本拠地であったことを、窺い知ることができる場所だ。

杜本神社

祭神は、経津主神(ふつぬしのかみ)と経津主姫神(ふつぬしひめのかみ)の夫婦神。平安時代初期には百済宿弥永継(くだらやどやえいのり)とその祖先の飛鳥戸氏を祭る神社であったという。大・小の官社(式内社)とその祭神を記した「延喜式」「神名帳」の名神大社として、祭礼時には朝廷より勅使が派遣された。そのことから神格の高さがうかがえる。この杜本神社と宮寺の関係を保っていた金剛輪寺は、神仏習合時代に創建されたもの。しかし1871年(明治4年)に、今度は神仏分離によって廃寺となっている。他にも、楠木正成公が戦死したときに、敵の目を逃れるために公の御首をひそかに隠した「大楠公首塚」、獣面人身を刻んだ一対の珍しい石像「隼人石」など、由緒ある遺跡が残る。

西琳寺

西琳寺は、応神朝後期の渡来した百済(くだら)の学者王仁(わに)博士が帰化し、その後裔である河内の文氏が文化の発展に努めた際に、欽明天皇のときに自宅の一部を精舎としたのが起源となっているといわれている。境内にある巨石は、仏教考古学上でも珍しい形式の五重塔の心礎であり、約7500貫(28トン)の塔礎は飛鳥朝様式としては最大級のものである。

誉田八幡宮

羽曳野市にある誉田御廟山古墳(応神天皇陵とされる)の南に鎮座し、欽明天皇の命で6世紀後半に創建されたと伝えられる、日本最古の八幡宮。主祭神は応神天皇。当初は陵の前に社殿があったが、平安時代中期の永承6年(1051)に後冷泉天皇が現在地に社殿を造営、誉田八幡宮と称したという(応神天皇の諡[おくりな]が誉田天皇[ほむたのすめらみこと]であった)。中世に入ってから源氏一族の氏神として崇敬され、鎌倉時代以降は源氏一門や各時代の将軍、一般の武士らの参拝も盛んに。現在は、安産の神、厄除の神として庶民の信仰を集めている。本殿と拝殿は、慶長11年(1606)豊臣秀頼氏によって再建されたもの。境内の宝物館には、源頼朝寄進の塵地螺鈿金銅装神輿(ちりじらでんこんどうそうしんよ/鎌倉時代・国宝)や丸山古墳出土の金銅透彫鞍金具(こんどうすかしぼりくらかなぐ/古墳時代・国宝)など、多くの宝物が保管されている。5月8日の夏祭り(藤祭り)には、舞楽が奉納され、9月15日の秋祭りには、国宝の神輿が応神陵に渡御する儀式が行われる。

峯ヶ塚古墳

峯ヶ塚古墳は前方後円墳で、墳丘の長さ約96メートル、後円部の直径約56メートル、前方部の幅約75メートルで、二重の濠を持つ。古墳は、5世紀後半から6世紀初めに造られたと考えられている。後円部中央の石室からは、大刀や珍しい花形飾り、三又形垂れ飾りなどの豪華な副葬品が多く発見され、その内容から大王級の古墳であることが明らかになった。また峯ヶ塚古墳には、峰塚公園が併設されていて、ゆっくり休憩することもできる。

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